量子力学と荘子。さて、荘子です。 『MATRIX』と、荘子をやっています。 参照:寓話と公案とシュレーディンガーの猫。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5055 『マトリックス』のスプーン曲げの少年と「シュレーディンガーの猫」について書いたんですが、シュレーディンガーの猫の話って、よくよく考えてみれば、禅の公案にある「南泉斬猫」と同じ話なんです。 『南泉和尚因東西堂爭猫兒。泉乃提起云、大衆道得即救、道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晩趙州外歸。泉舉似州。州乃脱履安頭上而出。泉云、子若在即救得猫兒。』(『無門関』第十四則) →南泉和尚の寺に一匹の猫が現れ、この猫を飼おうという議論がなされた。南泉は子猫の首を掴んで「大衆道ひ得ば即ち救ひ得ん。道ひ得ずんば即ち斬殺せん」と言いったが、何も答えられず呆然とする弟子たちの前で、南泉は猫を斬り捨てた。程なくして帰ってきた弟子の趙州がはその話を聴いて、草鞋を脱ぎ、頭の上に乗せて外出した。南泉は言った「趙州があの場にいれば、猫は助かったな」。 「趙州が草鞋を頭にのせたことに何の意味があるのか?もしここで趙州に代わってもうひとつの答えを示すことができれば、猫が無事でいることが見えるだろうし、もしわからないのなら猫が斬られるところが見えるだろう。」 ・・・これ、そのまま「シュレーディンガーの猫」ですね。 シュレーディンガーという人は、東洋哲学に非常に造詣の深い人なので、禅の公案を読んでいる可能性が高いのではないかと思われますが、確証はありません。ま、ついでに、赤い洗面器の男でもあるか(笑)。 参照:赤い洗面器の男 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%B4%97%E9%9D%A2%E5%99%A8%E3%81%AE%E7%94%B7 シュレーディンガーの猫 http://www.youtube.com/watch?v=Q8savTZOzY0 エルヴィン・シュレーディンガー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC これって、『荘子』の寓言篇と同じなんですよ。 『卮言日出、和以天倪、因以曼衍、所以窮年。不言則齊、齊與言不齊、言與齊不齊也、故曰無言。言無言、終身言、未嘗言。終身不言、未嘗不言。有自也而可、有自也而不可。有自也而然、有自也而不然。惡乎然?然於然。惡乎不然?不然於不然。惡乎可?可於可。惡乎不可?不可於不可。物固有所然、物固有所可、無物不然、無物不可。非卮言日出、和以天倪、孰得其久。萬物皆種也、以不同形相禪、始卒若環、莫得其倫、是謂天均。天均者、天倪也。』(「荘子」寓言 第二十七) →日々口をついて出てくる卮言は、天の有様と調和し、しがらみのない世界に身をおいて、命を全うするためのものだ。「同じものだ」、「違うものだ」という言葉にとらわれた論争そのものが、天のもたらす有様とかけ離れていく。だから、かつての至人といわれる人は、是非の判断を決め付けたりしなかった。この世の有様は、是非の論理に囚われていては、一生しゃべり続けても説明できるものではなく、たとえ、しゃべらなくとも(言葉で物を考えている以上は)、結果は同じことだ。人間の視点に立って物事を考えるのに、「良いもの」「悪いもの」「これはこうだ(然り)と思うもの」「これはこうではない(然らざる)と思うもの」と決めつけて考えたがるが、何を以って「良い」「悪い」「こうだ」「こうではない」と考えているのか?物事というのは、どう考えたところで、元からそうあり、そうあるべき場所におちつくようになっているのだ。出来事は、言葉で考えている人間の思い込みとは、往々にして違う結果になってしまうものなのだ。(賢き人よ、そうではないか?)。是非の論理ばかりではなく、卮言によって、和を以って天の有様を語らねば、この世の長い歳月の間の営みを、誰が理解できよう?万物はそれぞれに種(違い)があり、形質が違うが故に、お互いに関係しあっている。その始まりも、その終わりも、まるで輪のように連続していて分けられない。これに一つの枠をはめることはできない。天の調和というものは、(人間の考える是非の論理とは別次元の)宇宙の原理であるからだ。 参照:当ブログ 荘子と寓言。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5031 『西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かされるだろう。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです。』(エルヴィン・シュレーディンガー) 「初めに言葉ありき」で言葉のレンガを積み上げて、バベルの塔になっちゃって「道は常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。」に移ったって考える方が、あの時代の発見って分かりやすいんですよね。 次、 「土星型原子モデル」を提唱した長岡半太郎さん(1865~1950)が、学生時代わざわざ休学して漢籍を読み漁って東洋の科学史を拾い集めていらっしゃったという話をしました。 当ブログ 長岡半太郎と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007 その後、 原子模型を作り上げた現代物理学の父・ニールス・ボーア(1885~1962)って、タオイストなんですよ。勲章が『太極図』でしょ?長岡さんや湯川さんと同じ本を読んでいるんです。 参照:ニールス・ボーア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2 しかも、ボーアはゲーテの色彩論にも注目しています。荘子の「これ本色か?」と同じなんです。 参照:シュレーディンガーの猫とボーアの相補性とゲーテの色彩論 http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity1031.html 『原子物理学論との類似性を認識するためには、われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。』(ニールス・ボーア) 「マトリックス」のネタ元の一つに、今から30年ほど前に書かれた「タオ自然学(The Tao of Physics)」という本があります。鈴木大拙さんに会って感動して東洋思想にのめりこんだ物理学者で「ニューサイエンス」の旗手・フリッチョフ・カプラという方のものです。東洋の哲学が与えた影響と、現代科学との類似性について書いてあります。『易経』と『老荘』、禅の公案、俳句、インドの『ヴェーダ』が、実は理論物理学に影響を与えている・・・。 『タオ自然学』には、湯川秀樹(1907~1981)さんも登場しますが、「素領域と混沌」の話は出ていません。おそらく、カプラはこの話を知らないんだと思われます。それが逆に恐ろしいです。 参照:湯川秀樹 創造的人間:東洋的思考から理論物理学へ http://www.youtube.com/watch?v=CqNPmXouwqc 当ブログ 湯川秀樹と荘子 その2。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5009 「過去数十年の間に、日本の物理学者たちが物理学の発展に対して大きな貢献をしてきたのは、東洋の哲学的伝統と、『量子力学』が、根本的に似ているからなのかもしれません」(ヴェルナー・ハイゼンベルク) 考えてみれば、ニュートンよりも2才年下の人が「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」って言ってしまう文化圏っておかしくないですか? この人は老荘の雰囲気は少ないです。でも、感じていることは一緒です。小泉八雲の文章から日本に興味を持った彼は、こういっています。 『たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれどもそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って忘れずにいて欲しいものです。』(アルバート・アインシュタイン) 参照:小泉八雲と荘子 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5046 蝶を追ふ 心持ちたし いつまでも 杉長 今日はこの辺で。 ジャンル別一覧
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